saki♪のAS・ADHD的なお話

AS(アスペルガー症候群)とADHD(注意欠陥多動性障害)を併せ持つsaki♪。障害ゆえの特性を中心に、気が付いたことや、番組や書籍の感想などを記述していきます。

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こだわりについて。

自閉の「こだわり」と、メンタル的な「執着」の違いはなんやろう?って思ってしまう。

今、私はあることにものすごくこだわっている。
それが日々、大きくなって、生活にまで支障ができてしまってる。

始まりは9月。
ある切望していることを実現したくて、恥もプライドも全てかなぐり捨て、関係者にお願いした。
そのことは、タイムリミットがあること。
今しかない!と必死やった。
が、様々な事情があり叶わんかった。
涙を飲んだ。
いや、飲んでへんねん。
もうずうっと泣きっぱなしで、嘆いたり、叶えてくれなかった人達に恨みの気持ちを持ちかけたり。
自分で、何とか、これは私を思ってくれはっての結末って納得しよとした。
自分で自分で言うて聞かした。
何度も何度も、言うて聞かした。
我慢するしかない、と。
切望していたことが叶わんかったことよりも、自分の恨みの気持ちの方が辛いから、ずうっと忘れよう、忘れよう、他に気持ちを切り替えようと努めてきた。

しかし、いつしかその「切望していたこと」が私のこだわりの大きな塊になってしもた。
そして、そのこだわりが今、ピークに達している。
もう何も手に着かず、考えることも、作業することも、本を読むことも、何かを楽しむことも何にもできひんぐらい参ってる。

今、2つめのタイムリミットが来たから。
そして、もうそれは今を逃しては一生得られないことがわかってることやから。

数日前から、自分の中で猛烈な闘いを繰り広げている。
こだわりを実現させるため、またまた9月以上に自分を捨て、恥を忍んでメールで捨て身のお願いをした。
件名も「一生のお願い」。

子どもの頃、ようみんな「一生のおねが~い♪」って言葉を使ってはった。
すぐに、ちょっとしたことを友達に頼むのに「一生のおねが~い♪」って両手を拝むように合わせて媚びるように言うてはった。
私はなんで一生のお願いがそう何回もあるんやろう?って思ってた。
意味を考えたら「一生のお願い」なんて使えへんとまじめに思ってた。

そんな軽い「一生のお願い」とは違って、私にとっては本気でそれぐらいの思いを込めてメールを書いた。
が、返事はなし。

単に見落としかもしれん。
忙し過ぎて、メールを見てはらへんのんかもしれん。
私のサーバーか相手のサーバーがトラブルで届いてないのんかもしれん。
見て、実行しながら忙しすぎて私に返信してないだけかもしれん。
実行してから返事しようと保留にしてあるのかもしれん。
その場合は、実行する、忘れて実行できない、するつもりが事情ができて実行できないと
またパターンが分かれる。
いろいろなパターンを考えようとしてみた。

でも、読んでも黙殺かもしれん。
読んで私の身勝手さに呆れられただけかもしれん。

いろんな思いが私をがんじがらめにする。

それなら、何故、電話をかけへんの?
他にも方法がないのん?

でも、もう遅い。
もう間に合わへん。
こんなギリギリに気を揉むのがイヤやから、だからこそ、以前から友人に頼んでその人を通して伝えてもらったりしてたのに。
早すぎても取りかかってもらえへんから、時期を見計らってたのに。

私は何故、そこまでこだわっているのか。
あるものを得るために。

もう今の私は、何が目的かがわからんようになってしまうぐらい、このことにこだわっている。
今、一番恐れているのは、今回のことが黙殺された場合、私のこの実現しなかった気持ちの持っていきようをどうすればいいのか。

一番恐いのは、相手を恨む感情を一生持ち続けること。
そんなことはできる限り避けたいのに。
人を愛して、人を信じて、安心して生きていきたいのに。

マイナス感情からは何一つ生まれへんのはよくよくわかってるのに。
なのに、このままやと恨んでしもて、私はもうその人達とは会うことができんようになってしまう。
それがつらくて、苦しくてたまらん。

それなら、このこだわりを捨てたらいいだけ?
そんなことは、言われなくてもよくよくわかっている。
自分でも、もう諦めたら?
気持ちを切り替えたら?
そこまでこだわること別にないやん?
それを得られへんかったって、自分という人間がいなくなるわけじゃなしって。

つい先日、「モーツァルトとクジラ」というアスペルガー症候群が主人公の映画を観た。
私は見始めた時から、涙を流し続けた。
その感情が何かわからず、不安に思いながらも、ずうっとずうっと泣き続けた。
つらくて、苦しくてたまらんかった。
今でもどういう感情かはっきりわかったわけではない。

が、今の私の感情は、この映画を観た時の感情と少し似ている気がする。
ものすごく辛くて、どうしようもないのに、どうにも自分ではできひん感情。
持て余してるのに、自分の力ではどうしても切り替えもできひんし、解決もできひん。
映画のアスペルガー症候群の人達は結構極端に描かれていたし、特に自助グループでは特徴を大げさに出すために、いろんな表立った特徴ある人のオンパレードやった。
それを見ていることのつらさや、全く同じでないにしろ、奥深い部分で自分と共通する「自分の力ではどうしようもない部分」のつらさが一気に押し寄せる。

私の「こだわり」は「執着」?
メンタル系の病的な執着?
学術的な(?)定義はよう知らんけど、きっとそれだって自分の力でどうしようもないんやろう。

私は、自分のアスペルガー症候群やADHDという障害名を告げた時、「普通に見える」とか「どこが?」とかって言われることがある。
長く、深く付き合ってくれば、みんな「なるほど、こんなところがそうなんだな」って気付く。
が、軽い付き合いや、ちょっと見ただけでは気付かれないことも多い。

最近読んだ本に「だれか、ふつうを教えてくれ! 倉本智明」というのがある。
弱視に始まり、今は全盲に近い方らしい。
軽度障害と重度障害とどちらも体験されている方。
だからこそ、書けることがあるって。
軽度障害といわれる弱視の時の方が、ずうっと苦労することが多かったって。
見た目にわからへん分、理解されず苦労したって。
全盲になってだれから見ても「障害」ってわかってからの方が、スムーズに支援も受けられ、苦労も減ったと。

自閉関係や発達障害関係の本ではなかったけど、すごい参考になった。
私は人にわからへん分、知らず知らずに「普通」と呼ばれてる人に見せるために、苦労をし続けてる。
映画の「ドナルド」と感覚がその点で言えば近いんかもしれん。
それは考えてそうしてるわけじゃなくて、「普通」中心の社会で生きていくためには、自然にそうせんとやって行けへんってすり込まれてて、そう努力をし続けるしかなかったから。
障害がわかってからは、その呪縛を取り除くために、無意識に普通になるための努力をすることから、それなりの(自分なりの)生き方をするように切り替えられる部分は、切り替えようと模索している。

自分の障害からの特性は恥ずかしいものではないけれど、人に迷惑をかける部分はできれば少なくしたい。
何でもかんでも特性のせいにして、不得意な部分は全部避けて、言いたいことだけ言うて暮らして行こうとは思ってへん。
こういう結果だったけど、そこに至る過程はこうであって、ここまで努力をしたけどこうなったとか、こういう部分は、こう助けてもらったらできる方法が見つかるかもしれんとか、何らかの方法で人に知ってもらえるようそういう努力はせんとあかんなって思うようにもなった。

私の内部がこの数日、これだけ壊れてるのに、こだわりで押しつぶされて、普通の生活をすることが困難なほど乗っ取られてるのに、それを外に表現することはとても難しく、ただただ涙を流し続けているだけ。

今朝、なおさんが出勤前に、私のただならぬ様子に気付き、いつものようにフラッシュバックだろうと思って「何を思い出したの?」って聞いてくれた。
やっと、今自分がこだわってることについての話をした。
タイムリミットが来てしまったことも。
それがもう一生叶えられへんことも。
なおさんも、私の気持ちを慮りながらも困ってしまって、それでも「もう一度メールしてみたら?」とだけ言い残して仕事に行かはった。

もう遅い。
もう無理。
もう叶わない。

再度、取り次いでもらった友人に電話することや、当人に電話することも考えた。
が、実現できひん自分がいる。

自閉の者が、こだわりを得られなかった時、どうやって解消したらいいのか。
その場のパニックだけで治まるなら、それでいい。
ずうっと引きずる場合、どうしたらいいのか。
どうしたら気持ちが切り替えられるのか。

どうこの困難を乗り越えたらいいのか。
だれか教えて欲しい。
苦しくてたまらない。

人を恨みたくない。
呪いたくない。
この思いを人への攻撃に向けたくない。
人に迷惑をかけたくない。

誰に相談したらいいのかもわからへん。
「こだわり」を解消する方法をわかる人、教えてください。


=コメント=

投稿:空音

私の近況が参考になれば良いけど…

いろいろ表に書かれへん辛い思いを感じたときもあってね。
私の場合、やっとその気持ちの本当の正体が
「くやしい」
やったって、やっとわかってん。
しかも色んな人に相談したりして、やっとわかった。

それでね、今の私が心がけてるのがね
「今大切なことを見失わないこと」
やね。自分にとって何が今大事なのか、よく考えて意識しておくこと。
今と一歩先を考えていること。

それと、悔しい気持ちも、羨ましい気持ちも、否定はしないこと。
自分の気持ちはだれが言おうとも、自分の中では真実なのだから。
でも、それは人には言わないこと。
人に言うてしもたら、トラブルになるから。
でも自分が自分の気持ちを否定せずに認めてそのまま自分の中でとどめておくのは、外に出さへんかったらトラブルにはならへんから。
辛い気持ちだって、自分なのだから、自分の大事な部分でもあるから。

今の私にとって、どう考えてもね…
「音楽」と「家族」が今の自分にとって一番大事だから。
だからそれ以外の雑念にとらわれへん練習をしてるところ。
ブログをあんまり書かなくなったのも、その辺が理由やねん。自分が出来る範囲ででもちゃんと家事育児して、楽器弾いたりする時間を優先しようとね。
もうちょっと暮らしが落ち着いたらちゃんと書きたいと思ってるねんけどな、今は時間があらへんし。

練習がいるねん、私は「考えること」「じっくり思考する」そのものが苦手やから。
ASDの人は「理屈の思考が得意」って言われるけど、私は子どもの頃に理屈を徹底的に否定されて育ったから、そこが自分は未熟やねん。

ちょっとずつかな。
ちょっとずつ進んで行けたら良いかな。
そんなところです。
( 2007年03月22日 09:54 [編集] )

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投稿:マイママ(serina)

考えさせられます・・

すごいsaki♪の気持ちがわかって、コメントできひんかったの。
ごめんな。

空音さんのコメント読んで、そうか~って納得した。
空音さんはえらいなぁ。

私は冷静になることが難しいです。
いつも何かに追い立てられてるみたいで、じっとしていられないので、
じっとしてるときは、体のどこかを動かしてないと落ち着かないし、
考え始めたら止められないので、
冷静になるってことが必要なんやけど、
それが、どうしたら冷静になれるのかってことは、
何が大事かってことを考えればいいんやね?
気を逸らす感じなのかな。

横レスごめんなさい。
( 2007年03月22日 13:17 [編集] )

----------------------------
投稿:トモ

「こだわり」を解消する方法、というのは、
正直なところ、僕にはわかりません。
ただ、saki♪さんが、つらい思いを
されているというのは、わかりました。

「自分の力ではどうしようもない」時、
僕は、祈ることにしています。
解決するかどうかはわかりませんが、
とりあえず、祈ります。

祈ることはしますが、特定の宗教を
信じているわけではありません。
でも、自分の力を超える問題は、
祈ることにしています。

たとえば、「平安の祈り」という、
有名な祈りがあります。

神様 私にお与え下さい

変えられないものを受け入れる
落ち着きを、

変えられるものを変える勇気を、

そして、その2つを見分ける賢さを

祈りがすぐに叶うわけでは
ありませんが、
祈ると僕は、少し落ち着きます。

「saki♪さんの苦しみが、
 少しでも楽になりますように」
と、お祈りいたします。
( 2007年03月23日 01:53 [編集] )

----------------------------

●空音~‥…★

いっぱい考えて、書き込んでくれてありがとう。

「悔しい」 「羨ましい」を表に出さないこと。
私の今で言えば、「恨みそう」な気持ちかな。

確かに、今までの生活で、それを自分で飲み込んで、だからこそ、その後、うまく付き合えだしたことって経験してるわ。
もし、あのとき、自分のその場の感情のままに、相手にぶつけてたら、今の関係はなかったと思う。
長い目で見たら、当時はかなり苦しくてしんどかったけど、良い選択、良い方法やったと思う。

この場合は、うまく解決した例やけど、問題は飲み込みはしたものの、ますます自分が苦しくなるばっかりで、うまく「抜く」方法が見つからへんときやろうなあ。

空音はいつも、よく考えて、自分なりにその時その時工夫して乗り越えて行ってるので、感心します。
また、いろいろ教えてな~。d(^-^)
( 2007年03月23日 22:04 [編集] )

saki♪

----------------------------

●マイママ~‥…★

横レス、どんどんOKよ~。

私もマイママと一緒で、身体も脳も多動やからなあ。
(^o^;)

じっくり考えること、してるのか、しれないのか、自分でようわからん私です。(苦笑)

リンクありがとうね~。
私もサイトにリンクさせてね。
( 2007年03月23日 22:12 [編集] )

saki♪

----------------------------

●トモさん‥…★

コメント下さってありがとう。
祈ってくださってありがとう。^^

私もね、もうどうしようもないときとか、
どうしてええか判断できひんときとか、
「祈り」ます。
すでに小学生の頃からそうしてたのを
思い出します。

私なりの神様像みたいなのがあって、
信じて祈っていました。

そして、今回もやっぱり祈りました。

「平和の祈り」はとても意味が深いですね。
考えさせられます。

これからも、祈りは大切にしていきたいです。
ありがとう。
( 2007年03月23日 22:24 [編集] )
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